ジョジョ…おいを訪ねて杜へ御出まし

重陽節句も終わり 御山洗い(富士山の閉山)も済み 鶏頭 彼岸花 女郎花 菊など 秋を告げるはなばなが目に映る。買い物に出たとき 紫式部と言う小さなちいさな紫のまんまるはなをつけて愛らしい。日本の四大文家 伊勢 紀貫之 清少納言 、紫式部というらしい。「源氏物語」の訳者は 与謝野源氏 武者小路 瀬戸内 田橋 林氏と世界の文学にご対面なさった方々、オレには世界観は全くと言うほどわからないが、読む ただ読む ことは得意なので 与謝野源氏 寂聴源氏 林源氏は目を通した。微妙な味わいで オレにはわからない。まさに四苦八苦です。

 

杜王町に着いた承太郎は「頭髪のことを言われると頭に血がのぼるタイプの」東方仗助に遭遇する。オレたちは 普段気にして生活をしていないわけですから、頭頂への意識は 怪我でもしないと頭のことは忘れているようなものだ。「第七チャクラ・・・霊性よのつながり」祈りのチャクラ、親切な思い 行動 信心や祈りによる行いなどにより蓄積されたエネルギーの倉庫なのだ。瞑想や祈りを通し、内面についての気づきをさらに強めてくれる働きをするのも このチャクラである。生命の中でも、日常のレベルを超越した次元との 繋がりを象徴しているのである。」「七つのチャクラ」より。

筋肉系 骨格系 皮膚などがになっている。気の病はここに機能不全と言う形であらわれる。

東方仗助はまさにこういう使命をもった存在として生まれている。それは 生まれながらにしてスタンドエネルギーを備えているという現実です。なによりも彼自身が其のことを自覚している。この章ではポイントの一つと早くにかんじました。仗助より早く遭遇した「康一」も 匂っていたがオレの直感もまんざらではなかったというわけです。

 

「得体のしれない何かがある」。ディオを煙とした承太郎の この言葉はディオのエンヤ婆のカルマのような何かとてつもないものを直観している表れでした。

液体を操るスタンド、人間は液体の存在。こんな化け物がいるなど 想像したくないものです。血 は愛のシンボルといわれます。病んでいないものにはどんな時でも 与えられるものではない。悪は悪を呼ぶ、ブーメラン カルマとでも表現しないでは辛くなる。ちょっとはずれているかもしれないが テーマ5は「智慧」。

ザ・ハンドスタンドとの戦いにおいて閃いたのです。ここでエンヤ婆の弓と矢を持つ男。 学生服を着ているとは 未だ自律をしていないもの。屋敷の中にいる 太陽から身を守っている 「一本しか無い矢」そしてひとかけらの細胞に魂を売った者の、因縁。一本の矢は新たなエネルギーのシンボル、しかし 一本はいずれ0になるということでしょうか。一 十 百 千 万 億 兆 京 と単位はかわる。数極まれば変わる という易学の応用といえるかな。するとつまり 一本の矢が折れるとは。?一体どういうことになるというのだろうか。この果てしない距離は 仏教の世界観で西方浄土にすむという 阿弥陀如来様は千京光年だと「冥途の旅は なぜ四十九日なのかーー柳谷晃著」にかかれています。

このスタンドは幾何学模様と 解説されます。この言葉で思い出す帯があります。愚かにも 幾何学模様で龍村しょう作の帯を買ってしまったのです。 この帯には魔物が住んでいて 会う着物が遂に無っかたのです。箪笥の肥やしにもならなっかた深手の一品でした。スタンドマンは言う「なぜ助けたか」 「死なせることはないと直感した」と仗助は言う。彼は第七チャクラのひとなのですから。弓と矢は輪廻するカルマから解き放たれるには?

聖書にはあの有名な「出エジプト記」には モーゼの出生 エジプトでの暮らし悲痛な叫び 割礼のこと 種のないパンを六日間食べることなどが 主とモーゼ アロンとの契約について 個と細やかにのべられている。そして紅海での主のしるし、「十四章二十節…モーセが手を海の上にさしのべたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。エジプトびとは追ってきて、パロの全ての馬と戦車と騎兵とは、彼らの後について海の中にはいった。暁の更に主は火と雲の柱の柱のうちからエジプトびと軍勢を見下ろして、エジプトびとの軍勢を乱し、その戦車の輪をきしらせて、進むのを重くされたので、エジプトびとはいった、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う。」・・・ひとりも残らなった。

 

オレはクリスチャンのできそこない人なのでこれ以上の言葉はない。

 

ごきげんよう