【二黒土星】高島易による2019年の3月の運勢

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      2019年の年盤             2019年3月の月盤


1 年齢・・・満3歳 満12歳 満21歳 満30歳 満39歳 満48歳 満57歳 満66歳

満75歳 満84歳 

 

2 二黒土星は六白金星の宮に入っている。二黒は地の意。働き者・他力本願の気持ちで人生を送る人・決断力不足の時もある・コツコツ型の貯蓄型でお金にはこまらない・消化器 肩こり 不眠 便秘の傾向ある。 六白は天の意。仕事の虫・完了の意・頭が良く先見の明有・負けず嫌い・家庭との両立は望めない。

 

3 3月の運勢・・・何事にも慎重を要する月。今までの努力が報われ勝負に出るには良いタイミング。下手な小細工などしないで誠実な態度で臨めば、全て順調に進む。(六白の見えない力の影響による)また、目上の人から信用度も上がる。但し、商談などの場合には知識をひけらかさない様に。「能ある鷹は爪を隠す」の気持ちで進めば吉

 

4 吉日・・・7日 9日 16日 18日 25日  注意する日・・・3日 5日 12日 14日 21日 23日 29日 30日  。  

 

5 2019年の二黒は東北の表鬼門の方位に位置する。八白土星中宮の星の回座も相まって物事が大きく動いていく。八白の本籍にもあたる宮にあるので、「相続」の意を持つ、古い世代が終わり新しい世代へと受け継がれると言う時である。物事が変わり次へと変化する時は、停止が必要。もともと中宮は五黄土星が回坐している宮なので(五黄は腐敗 死と再生の意)意にそって、必要な事と言える。

 

旧暦でいうと一年の終わりは「丑年(ちゅうげつ)」、始まりは翌年の「寅年(いんげつ)」、丑月と寅年の間に年の移り変わりがある。これは鬼門、東北の方角でおこなわれる。2019年の二黒は八白の本籍に会って、中宮には八白と言う大変化の年である。

 

二黒土星に限らず2019年は「変化・革命」の年であることを心にとめていた方が、余裕も持てるのではないか。オレも10年先、平常心でいられる心の態度なるものを明確にすると言う気持ちで、情報を集めたり・実行する・計画変更の柔軟性などを心掛けている。昨日、3・11の記録と検証・方法・人の心を語り継ぐなどの活動の輪を広げようと意識している方々の接点の場に参加してきた。

 

彼らのネットワークのすごさと、それを支えるリーダーが存在していることである。忘れない・今だったらあの時の気持ちをようやく他の人に言葉として伝えられるようになったと語る人が多い事だった。

 

オレは3・11に対しての気持ちは間接的である。受けた不自由さは停電・水道が出ないことぐらいだったのだ。ニュースを通して知ったのであるため凄みはオブラートに包まれてオレの中に入って来た。翌年、海岸での「手をつなぎ黙祷した人々」の集いに参加したことぐらい。車で出かけて感じるのは、津波後の復興にはまだまだであるということです。社会的には予想だにしない事件の発覚があり、直接関わることは不可能な事に戸惑いと漠とした不安を覚えるのがやっとである。こんな時新聞のヒトコマに気持ちが止まって、参加した集いであったが、次回は今秋か、来年かなとの言葉の端々に、「縁」のない集いかなと感じてきた日だったが、未知の活動者に会えて事は、将来の自分の行いの心構えに繋がるかなと、己への戒めを感じた。

 

6 オレの育った時代は「ランプ」というものがあった。シューズが切れたりすることが多い為と言う理由であったと思い出す。小学生のころ「白黒テレビ」がデビューした。村の誰かが買えば「テレビ」と言うものを知っただろうが、もし、その村になければ知る由も無かっただろう。オレの親戚の内にあったので、毎日のように、近所の子たちが場所取りのように一秒でも早く着くように走っていたと思いだす。

 

『利休の侘茶   大徳寺如意庵  立花 大亀著』より

「・・・裏の庭に木槿が五・六本あって、よく咲いてくれます。特に白が大輪で、美しいものです。道端の木蓮は馬に食われけりなどと言われて、生垣くらいにしか用いられない、つまらない花です。しかも朝開いて夜しぼむ、槿花一朝の夢、などと言われる本当につまらない、どこにでもある強い樹で、二、三年もしたら大きくなって、花がいっぱいに咲きます。その木槿を毎朝一枝切って、葉を四、五枚残して大輪一本、腐りかかった竹の花入れに投げ込んで、四畳半の小間の柱に掲げていると、なんと美しいものではありますまいか。世にこんなに美しいものは無いぞ、とでも言いたいくらい美しい。毎朝毎朝、九月いっぱい咲いていて、二か月あまり、その木槿の美しさに私の心が洗われました。うっとうしい私の心を清らかにしてくれました。仏教と花、ということをいろいろ考えているうちに、そんなことがあったことを思い出しました。

 

さて、花を最初に部屋においたのは、やはり藤原時代でしょうか。六華と称し、仏に供えたのが始まりかと思いなす。桃山時代になると茶の湯の人が、茶室に花うを入れるようになりましたが、中でも利休は、『南坊録』で、花は野にあるよう、一輪が良し、と語っています。   おもしろいもので、桜は日本のシンボルのようになっていますが、あれは山にあるからよいので、茶の間に入れても少しも面白くありません。蓮でも池にあるから美しいのです。しかし侘茶の小間では、豪華な花はうつりません。」

 

「冬の椿、夏の木槿という。牡丹などは、咲いて美しいのは畑の中で、切って部屋に持ち込んだら、つぼみが宜しい。咲いたら詫びが消えてしまいます。」とある。椿のつぼには仏性が見えるように思う。葉を数枚 残すのですが、どこを切ってどこを残すのかによって、「あぁ!いいですね」、「うーㇺ!」となるか、おけいこの全てが知られてしまう、瞬間の「音(ね)」です。この一瞬はなにもかもが止まっている、そんな時空です。

 

つづきます。

 

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