【三碧木星&五黄土星】水に声なき 恋愛事情

   泡の山

 

待ち人来り。飛翔のおでましや。社中一同の歓迎を受けて、まずは「濃茶」の席へ洋服のままで進む。師は大歓迎、「三碧さん、わざわざおでまし頂きまして恐縮致します。さあどうぞ、こちらにどうぞ」。「お願いしますね!」。主菓子は、師自らのデザイン、舌触り、甘さ、季節の姿が十分であることを確認済みであったが、残念なことに、予想をはるかに超えたお客様のお出でに菓子が足りなくなり、その場を預かる弟子たちの機転に寄り、早めの追加の電話を済ませていたのであった。最高400人は超える事はないと踏んでいた。

 

   亭主と正客

 

「お忙しいところを御出まし頂きありがとうございます。」「イエイエ。遅くなりまして失礼致します。この度はおめでとうございます。」・・・互いに褒めちぎり合う場は茶室ならではのことば。名品の数々に大称賛の正客、亭主の満悦なる有り様を隠すことなく、楽しんでいた。これが今日の茶会の心を最もなごました一服で有ろうことは一同も、成し遂げた感を深く浸るに十分だった。

 

   みどりいろ

 

濃茶は深い緑色、薄茶は薄緑色で、字のごとく安定色である。松の緑、葉のいろ、青畳、青竹、青二才、この国には多種多様の緑に自然に囲まれ包まれて生活している。グリーン車は「満足、まんぞく」空気で満たされている。ナミは「黄緑」をお守りのカラーに選び後生大事に携帯している。このころのナミは一人を満喫し、仕事も趣味も充実していた。

 

   最後のおきゃくさま

 

ナミたちもお相伴にあずかりながら、徐々に片付け始めていたところに、ヒョイっと現れたのは三碧さんであった。言葉は歓迎、気持ちは「えっ!今頃かい。気をつかってよね」と苦笑い。一番手の茶わんの箱を取り出し、包をほどいていく。時間も手間もかかる。だからこそ、幾重にも重ね重ねしまい込んでいるのである。一度切れたスイッチを作動させるのは、なかなかのこと。師の手前もあり、数茶碗では済まされなかったのである。「ナミさん、それから皆さんもこちらへ」と亭主からのひとこえは鶴の一声に等しい。

 

ナミはいやだいやだの雰囲気を醸し出すようなことはないようにと。念をいれたつもりではあったが、正客さんにはどのように届いたのかは知る由もない、この会も「おしまい」であったことには相違ありません。薄茶とは言え、濃いめをお好きと窺っていた事だけはナミにとっても助けであった。

 

延長戦ももう続くまいと気合いを抜いたほうが負けか?ナミは想っていた。このお点前座にいるのはナミの意志ではない。この役割は師の意志である。大老たちの立場にも耳を貸さず、ナミを指名したのである。それよりも「表千家」の門徒であることを許したのはほかでもない、連綿と続けてきた、千家一族の賜物である。

 

   国宝

 

『国宝茶室「待庵」(たいあん)は、現在、千利休作と信じうる唯一の遺構である。二畳敷、隅炉、床は天井まで塗りまわした室床(むろどこ)の形式である。極小の空間でありながら、天井の構成、窓の配置の妙などにより、少しも狭さを感じさせない。』「大徳寺如意庵 立花大亀著・・利休の侘び茶」に書かれている。茶の湯の美とは・・「私は常々、人間がつくりなす美の中でも、この中釘にかかる花が最も美しいと思っています。花だけではなく仏様とさえ見奉るほどの美の創作であると思います。」と絶賛するのは、「浜本宗俊氏の茶事」よりと書かれてある。

 

ナミは読書も好きなので、読み終えた本の記録簿を大切にしてきた。人によっては、喫茶の達人は、この本を読んで止まないと想像する。繰り返して読むことを得意としないナミは、尊厳の意を以って手にとった一冊であることを、決して忘れはしない。なぜなら、「おけいこ」を破門されても、自業自得と腹をくくりて、断腸の思いを抱きながら、時を送ることになると、覚悟の朝を迎えたはず。

 

   エゴイスト

 

ナミは三碧さんのお陰をもちまして、己がエゴイストの有り様を以って修行さえできない身。茶道とはこうした存在である。

 

   茶会のあと

 

満開の桜の後、ホオジロのさえずりは恋をしている求愛の歌のみの意。「さえずり」と呼ばれているのにこんなステキな鳴き声だったとは、久しく忘れていた。蛙たちも相手を求めて鳴きたてる。春になって眠くなるのにはそれなりの理由がある。「目覚めたばかりの蛙の目では求愛しにくいから、近くで気のある人のまなこを借りていくのである。」でもって、人は、春たけなわのころに、ひとしお 眠気ます。昼時、ナミは昼寝タイムは一日のうちで待ちに待った精神安定タイム。OK!。

 

つづきます。