【子どもと保育園、保育士】変化にきずかない振りという現実 その壱

5がつ29日 18時過ぎ。3歳9か月?の女児との会話。「ネェ、のり先生。くうきって知ってる」「えっ?ことちゃん くうきって知っているの?」「うん!知ってるよ」「えっ!先生ね知らないの。どんなもの」「あのね、小さい瓶に あながあいていて、小っちゃいあな見るとね くうきがいるの。」「へぇ~ほんと!今見える?」「うん、見えるよ」「すごい、すごいね。どうしたら見えるか 教えて。」「うん。いいよ。」

 

最近の新聞記事。・・・園児3人暴行、もと教諭に有罪・・神戸地裁判決。というみだし。被告は41歳。「裁判官は判決理由で・・勤務のストレスなどから、感情のままに暴行しており 悪質」と指摘。この記者は「教諭を頼るしかなかった園児の受けた傷は大きく、子どもを預ける家庭や社会にも影響を与えた」子どもは2歳の男児、他にも1歳~2歳の子にも。

 

これは氷山の一角にすぎないと言わざるを得ない現実だと申しあげたら、今この記事を目にしている方々はどんな感情を抱いていますか?40代の頃、目にした保育、「昼食時」スプーンは握り持ち 茶碗はまだ持てない子。あきてくると、コンビラックから立ち上がろうとする。何回も座り直させるが、効かない。どうするか?

 

紐で上半身を縛るつける。子どもは「口を」固く閉じて イヤイヤする。次は鼻を抑えたり、無理矢理 口を開けて食べ物をスプーンに載せて入れる。

 

目の前でまさに起きていることであるが、後々の仕返しが怖いので 自分が保育中で、「担っている」一人だということを一瞬忘れ、自己防衛に入る。

オレは決断の末、現場を「主任」に報告し事実みてもらい、証拠を確実にした。またある時、学童保育の主担が、言うことを聞かないという理由で もの置き場の入り口に正座を強要させた。1時間過ぎた頃、男児はおもらしをした。・・・

 

オレの子が年長児クラスにいた時、ポケットに「福神漬」を忍ばせていた。しばらく様子を観ていたところ、同じことが続いた。「カレー」の日の産物であることがわかった。この子は自宅でも 漬物類は一切食べれない子だったので、自宅では問題視していなかった。「カレー」の日、福神漬はさっと隠してお家に以って来ていいよ。という結論をだした。娘は「今日はカレー!か」ということを言わなくなりました。

 

20代中期の頃、「給食を食べない」女児がいた。おやつは食べていた。オレは会議で検討してもらった。結果は「日の丸弁当」の持参と言うことに。一見落着。此のことは保護者の方とも十分話し合った結果でした。

 

保育士は「先生」と呼ばれます。「なぜ?」。オレはずーとこのように感じていました。自己否定という意味ではありませんが、高校卒業したばかり。資格はあるが、知識も 知恵も 経験もなにもない自分に、素直にそう感じただろう。実は長きに渡って、保育の現場にいるのですが、「今」でも考えています。特に「認定こども園」という制度が現実になったからです。「教育と保育」。責務ある教育 保育の場にいるのです。それは生涯にわたりその「基礎」となる人間の核の形成の時を 社会 国から託された一人だということにほかありません。

 

なぜこのような、あってはならない事が続くのでしょうか? 「たった今」どこかで 誰かが暴力保育をこの瞬間に、言葉で 態度で 雰囲気で、あってはならないと、自分自身に問いかけていきます。

 

『七つの子』    本居長世ー作曲  野口雨情ー作詞

烏なぜ啼くの   烏は山に  可愛い七つの  子があるからよ   

可愛可愛と  烏は啼くの  可愛可愛と  啼くんだよ

山の古巣に  いって見て御覧  丸い眼をした  いい子だよ

 

宿命ともいえる親の子に対する悲しいまでにこまやかな愛情の世界を、巧みに表現している詩である。この詩の原型は、明治40年出版の月刊民謡パンフレット詩集「朝花夜花」に連載されている、民謡短詩で、大正10年に子ども向けに改作したのがこの童謡だった。 映画「二十四の瞳」(木下恵介監督 壷井栄原作)のなかでも歌われた。

(覚えておきたい日本の童謡・唱歌名曲50選より)