ジョジョ…承太郎の生家その壱

昨日は秋分の日、お彼岸、オレ達はお寺さんに行くが 仏教の話をきくに行くわけではなく、ご先祖様にすーと 手を合わせ花を添え線香をあげ、故人の好きだったものを供える。目をあげると周りには親戚一同の石碑がズラリと並んでいる。長屋のように。実家から離れて暮らしていたオレは「あれ、けえてたんだ(帰っていたんだ)おらほさも寄ってて」とこえをかけられる。「はい。ありがと」と答える。ポツポツとコスモスや彼岸花が秋だと教えてくれる。もしお寺さんが昔々のように 学ぶ役割を担っていたなら この世は変わっていたかもしれないと。今からでも決して遅いということはないはずだ。神社でも同様の事がいえると期待したい。

 

空条家のお庭は チラリとしか見せて頂けなかったが、池には五色の鯉が住み 時折チャポンと 音を響かせながら人の気にもふれる。橋 四季を彩る木々や花々が点在する、オレのいる今は 秋なので芙蓉 桔梗 萩 八ツ手 四季バラなどなど。

池の水の動きは自然を目に見えるものとして感じさせてくれる。私達には 水 が見える存在としてあるだけで 心が和む。水の豊かな国に生まれたことを忘れている日本である。オレは強い共時性に導かれて 「俳句」とともに生きている人に出会った。それまで俳句とは無縁の自分であったが 一か月に百首も浮かんでくるほどでしたが ルールについては全くの素人で無知でした。でも一歩一歩前に。そのうちに 俳句雑誌にも取リあげて頂けるようになりました。生活にも刺激となり 見る目が自ずと変化してきます・先生はよく旅に出かけては 人に出会い 食 風景 そして俳句に出会っていたのでしょう。専門の世界というものはある。オレがちょっと不思議に感じたのは「現代俳句協会」というようなことばだった。いつ頃を境に生まれたのか オレには関係ないと言えばそうなのだが。

 

水は水道から おれたちには当たり前すぎて災害にでも遭遇しなければ 命そのものだと気づかされることのない空気とおなじようなものだ。俳句が進化したのには「水」が重要な生き物だと思っている。水のあるところに人間も住み発展してきた。・・・

水が消えた! 「閑かさや 岩にしみいる せみのこえ」芭蕉の句。康一のスタンドのヒントになった句。

流れが極端に変化している現代、芭蕉 一茶 らの偉人が旅をし一夜の宿を乞うために「句」を差し出したという。川は舟でいく。子どものころ田んぼの為に水路が張り巡らされていた。そしてそこにはドジョウ つぶ カニもいたなぁ。思い出の中にはあるが薄くなっている。

承太郎の生家にはそんな宝物が生きている。育ってきた環境は人をはぐくむ。余談だが

新生児は72時間で人生の素地が決まる。母とのご対面はなるべく早いほうが望ましい。なんったて一生がかかっているんだからね。オレは保育士だから嘘言わない!そのうちに名前をもらい さらに個として人生が動きだす。実は母のお腹にいる時には 個になるべく条件を組み立て 遅くてもどんなに遅くても産道を通る時に「魂」なる核が決定されると 本でしった。承太郎はこうしてオレ達のまえに出現した。一族の流れのすべてを60兆の細胞に刻み込まれて。彼の宿命であり使命でもある。

承太郎の生家から 海 はどの辺かなとフト思った。一応生物は海と深いつながりがある。特にオレ達の国は四方が海なのですから。そして「木」。子どものころ命の糧であったと思う。家 水の浄化 薪 炭 農機具・・・生活には欠かせない 木 であった。

 

康一はザ・ロックと戦う。人間が内在する罪悪感 つまり恐れを食い物にするなんて許さないわよと このオレでも叫ぶよ。罪悪感が増す度にロック度がます。オレはまふと思った。康一だけの問題ではない 今現実として生の存在として生きている、日常の影に このザ・ロックを放つスタンドがいるのだ。過労 セクハラ パワハラ 暴力 殺人 麻薬 自殺 ・・・〇〇障害 鬱 そう がん 感染症 切りがない。予期せぬ負が つねに隣り合わせ いつの間にか病気になる。康一のスタンドはこれらの内から苦痛を感じさせる。すごい! と本心から感じ欲した。オレの内にも ザ・ロックは住み着いている。自分 他の人に負のエネルギーを浴びせているのかわからない。無意識のうちに放つ厄介なものだ。康一 ありがとう。姉と弟は「安寿と厨子王」の物語を彷彿とさせる。オレと弟は 前世では親子 弟はオレの息子だったと言う 夢をみたことがあるのです。

 

間田の上っ面スタンド。木でできている。心ねは良いとは言えないが 木はなんとなく憎めない点がある・「パーマンコピーロボット 知らないか」いうが オレは好きだったなぁ。ピノキオも思い出したよ。懐かしいねぇ。

康一と仗助はくすぐるような共同体だなと感じました。ここまでのストーリィでは「輪 和 吾」がテーマかなと思った次第です。

俳句には目の前の事物だけではなく 体験した記憶が瞬間に意識にのぼってくる。即一言でも書き留めておかないと 瞬時に手掛かりがけてしまうことが多々あります。自作の句で「これでいいかな」感ずる句は本当にすくない。

芭蕉は深川で「仏頂和尚」というかたと出会って参禅をする。禅と出会っていなければ あの有名な句・・・古池や 蛙飛こむ 水の音・・・は生まれなかったともおもいます。」・・・角川「俳句」7月号・・・に書いています。また「仏教がいっている無というのも、もっと広大な無で、その広大な無の生き生きとした表れ方が海であり川であり、そこに生きる生き方ではないでしょうか。仏教よりももっと根源的といってもいいかなと思います。---伊賀 甲賀のあたりに生を受けています。あの地帯は観阿弥世阿弥の一族も出ているところで、お能を大成した人たちは「自分たちは秦氏だ」言ってますでしょ。

秦氏は海と関係しています。元は中国だと言われている人たちですが、朝鮮半島に出て、それから日本に渡ってきて、日本の技術とか芸能とかの基礎を作った人たちです。海民とすごく関係が深くて、舟を作る技術も 秦氏と深くかかわっています。機織りもそうですし、作庭芸術もこの人たちと関係しています。

この作庭技術から、お茶とかお花とか、みんな生まれてくるわけです。竹細工をやり、扇を作る人たちで、そうすると、扇に絵を描く職人、俵屋宗達なんかもこの流れに入ります。画家が輩出してくる。その大本になっているのが秦氏です。・・人間の生活に自然をどう取り込むかという工夫を続けた人々なんですね。・・・能では、無から有の世界へ出て来た何者かが、何事かを語って、また無へ戻っていくという構造をしています。・・・高浜虚子は能好きで、・・・水は島と島をつなぐもの。」小澤實氏と中沢新一氏との対談です。

 

天にまします芭蕉さまと 俳句に出遭った方々に深くお詫び申し上げます。句を横書きに書くということは、言語道断であります。ジョジョ一族に免じて御赦しあれ。

 

ごきげんよう